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版画「東海道五十三次」の事、浮世絵師・安藤広重の生涯

2022.03.12

2022年3月8日、大阪の古美術商から余の最愛の浮世絵師・安藤広重殿原作「東海道五十三次」の内、第17番「由比・薩埵嶺」並びに第19番「江尻・美保遠望」の手摺りの版画が届けられた。
此の2点の作品は「東海道五十三次」の中でも特に余が気に入っている駿河の山水のある美しい眺望を描いた風景画である。
更に同月10日には同様に第1番「日本橋・朝之景」と第55番「京師・三条大橋」が届けられた。
第1番は「東海道五十三次」の中で最も有名な作者の地元・江戸の風景で、55番は東海道の大尾(締め括り)の京都を描いている。
尚、これ等の作品は題名こそ「五十三次」となっているが、実際の作品数は計55点ある。
余は此の作品の紙の保存状態からして平成時代の初期頃に制作されていると推定するのだが、これ等の制作法は絵師・広重殿の(江戸)時代とほぼ同じ手法、即ち「絵師」が原画を描き、其れを元に「彫師」が木版を造り、其れを「摺師」が顔料を載せて「ばれん」で摺って印刷する手順で仕上げている。
流石に江戸時代以来の伝統の手摺の版画は、機械で印刷した画像とは全く異なる天然顔料の「色合い」、独特の深みのある「味わい」、そして手作りの「温もり」がはっきりと感じられる。
又、此の2点の版画の表面を触ってみると、紙を版木に押し付けて摺る事によって出来る凹凸が認められるのである。
余は広重殿の画集「東海道五十三次」、「木曽街道六十九次」、「名所江戸百景」(全て集英社)、「富士三十六景」(二玄社)、及び絵葉書「近江八景」を所蔵している。
いつもの好奇心で此度入手した版画と此の画集の同画像4点とを比べて見ると、色や細部に僅かに違いがあるが、広重殿の原画を忠実且つ見事に再現していると評価出来るのである。

余が広重殿の作品を初めて知り、興味を持ったのは早くも7歳の頃である。
其のきっかけと言うのは、何とあの「永谷園」が製造販売しているインスタント茶づけ(ふりかけ)に同封されていた「東海道五十三次」のカードなのである。
流石に余も当時は小学校1年生であったので、後に習得する美術理論、歴史、地理、等の学術的知識はまだ無かったが、少年なりの感性でこれ等の小さなカード(14.3×6.3cm)に印刷された広重殿の作品を見て興味、感銘を受けて集めていたのを今でもはっきりと覚えている。
僅か3歳の頃より絵を描き始めて天性の才能を発揮していた余が広重殿の作品を斯(か)くも早く知り、彼の作品が余を画家への道へ誘い(いざな)、そして後の余の代表作Berlin, Brandenburg, Ost,West-Preußen, Pommern地方の名所・文化財の連作を生み出すInspiration(ひらめき)の原点にまでなったのである。
因みにこれ等のカードは「永谷園」が1965年に初版を発行して以来、高い人気を得て、「浮世絵シリーズ」(安藤広重、葛飾北斎、喜多川歌麿、東洲斎写楽)のみならず洋画の「印象派シリーズ」(E.Manet, P.Cézanne, E.Degas, G.Seurat, A.Renoir, V.v.Goch, P.Gauguin)、「竹久夢二」、「日本の祭り」までもが発行され、実に1997年まで続いた多種多様な大変息の長い「おまけ」であった。
そして民間からの要望に応えて、2016年11月より広重殿の「東海道五十三次」のみが再発行されている。
此れ以外にも郵便分野に於いて特殊切手「国際文通週間」の図柄として、広重殿の「東海道五十三次」の図柄が採用されているので、余も切手コレクターの1人として約30枚所有している。

扨、是より浮世絵師・安藤広重殿の生涯について書き記して行く。                    
広重殿は寛政9年(1797)に江戸の八代(やよ)洲(す)河岸(がし)定火消(じょうびけし)同心(どうしん)・安藤源右衛門の長男として生まれた。            
本名は安藤重右衛門と称した。 
文化6年(1809)2月、母上が御逝去され、同月に父上が隠居されて、僅か数え13歳になった時に家職を継ぐ事になるが、同年12月には父上までもが御逝去された。 
幼少の頃より絵がお好きで才能を表し、絵師・歌川豊広(1774~1829年)の元に入門される。  
翌年(1812)に師匠の苗字(芸名)と自分の名をそれぞれ採って「歌川広重」の名を与えられ、文政元年(1818)に一遊斎の号を称して絵師として世に出られた。                
文政4年(1821)には同じく江戸の火消同心・岡部弥左衛門の娘と御結婚された。
文政6年(1823)には、養祖父(安藤家方の)嫡子・仲次郎に家督を譲り、御自身は「鉄蔵」と改名し其の後見となられたが、まだ仲次郎が若干8歳であったので引き続き火消同心職の代番を勤められた。
本業の絵画制作に於いては先ず「役者絵」から始め、やがて「美人画」も手掛ける様になるが、文政11年(1828)師匠の豊廣の没後は彼の根幹主題となる「風景画」を主に制作する様になられた。   
天保元年(1830)画号「一遊斎」から「一幽斎廣重」と改められ、「花鳥図」をも描かれる様になる。天保3年(1832)、家督を継がせた仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専念する事が出来る様になった。                                   
此れを機に「一立齋」(いちりゅうさい)と画号を改め、又は「立斎」とも号した。                                       
入門から20年以来、師匠は豊廣だけであったが、此の頃大岡雲峰に就いて「南画」を修めている此の天保3年(1832)に公用で東海道を旅し、絵を描いたと伝えられる。               
(現在の研究では此の事は疑問視されている。)                                         
翌、天保4年(1833)から代表作「東海道五十三次」を発表され、江戸にて大人気を博される。                             
此れにて広重殿の風景画家としての名声は決定的な物となった。
翌年以降も種々の「東海道」シリーズを発表された。                       
天保6年(1835)には「近江八景」を発表。                         
天保9年(1838)から翌年にかけて「木曽街道六十九次」の制作を進められたが、途中より1841年頃まで一時中止の時期はあったものの天保13年(1842)に完成させた。(此の画集の内45点が広重殿による作品である。)                                     
安政元年(1854)に発生した「安政東海地震」、更に立て続けに、翌、安政2年(1855)に発生した「安政江戸地震」によって江戸の町は壊滅的な損害を被った。
此の大惨事により多くの江戸の住人達が困窮と絶望に打ちひしがれていたのを目の当たりにした広重殿は、地元の人々を勇気付けようと安政3年(1856)に「名所江戸百景」を制作し発表された。 
此の翌年以降も各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けられており晩年の代表作となった。
更には短冊版の「花鳥画」に於いても優れた作品を出し続けられ、其の他、肉筆画(肉筆浮世絵)、歴史画、張交絵、戯画、玩具絵、摺物、団扇絵、双六、絵封筒、そして絵本、合巻や狂歌本等の挿絵も制作されている。                                         
これ等の肉筆画、印刷された作品を合わせると総数で約2万点にも及ぶと言われている。                             
安政5年(1858)には最後の作品集「富士三十六景」を発表され、同年の旧暦9月6日(新暦10月12日)享年62歳で其の生涯を閉じられた。 死因はコレラであったと伝えられている。                 
広重殿の墓所は東京都足立区伊興町の「東岳寺」にあり、法名は「顕功院徳翁立斎居士」と称する。

興味深き事に画家としての広重殿と余を比較してみると、実に多くの共通点が見出されるのである。
第1に互いに「士族」出身である事: 広重殿は江戸の定火消同心・安藤家の生まれ、余は源義仲公の実の妹・宮菊姫の流れを汲む奧山家、親族にも同じく源氏の流れを汲む小西家、讃岐の国の大名・蓮井家、松平、高松藩、家老職・市森家、等がある。
第2に幼少の時に父親が他界している事: 即ち広重殿は13歳の折、余は10歳の折である。
第3に御互いに一国の首都で活躍した事: 広重殿は江戸(現在の東京)、余はBerlin(ドイツの首都)である。
第4に根幹主題が風景画である事: 広重殿は江戸を中心とした日本各地の名所の連作、余はBerlin, Brandenburg, Ost,West-Preußen, Pommern地方、其の他ドイツ各地の名所・文化財の連作をそれぞれ描いている。
第5に御互いに使っている絵の具に共通の顔料がある事: 其の名は広重殿の時代には「べろ藍」、余の油絵の具はドイツ語で”Preußisch Blau”と呼ばれる。
実は広重殿が空や水の表現に使っていた此の「べろ藍」は元々Berlin(当時は”Preußen王国の首都)で発明された藍色の顔料の事で、日本に初めて輸入された時には「ベルリン藍」を短縮して「ベル藍」、更に此れがもじれて「べろ藍」となった次第である。

実際の言い伝えによると、広重殿の人柄は教養豊かにして、行儀良く、言葉丁寧で、謙虚で人当たり良く、几帳面で、節度ある規則正しい生活を営まれたていたそうである。
此れに対し同世代の浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849年)が傲慢で不摂生でだらしない(場合によっては淫らな)不安定な生活をしていたらしい。
要するに此の2人の「天才」は人格に於いても生活態度に於いても正に対照的であったと言える。
本来なら医学的理論からは、広重殿の様な生活習慣を採っている方が長生き出来るのだが、実際の処、北斎は放蕩生活をしていたにも拘わらず、何と89歳まで生き延びたのであった。
「人間(人生)五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如く也。」と言った時代からすれば、驚異的な「大往生」であったと言える。
此れ又言い伝えによると、広重殿が北斎の才能と作品に感銘を受けて、自ら本人を訪ねて行った時、広重殿が丁寧に挨拶と自己紹介をすると、無礼にも北斎はいきなり広重殿に筆を投げ付けたそうである。
此の北斎の広重殿に対する態度を心理学的に分析してみると、37歳も年下であった広重殿を見下したのではなく、其の才能に脅威を感じていたのかも知れない。

芸術家を評価するに於いて、其の作品は最も大事である事は言うまでもない。
しかし芸術家の人柄や生き方も大事な要素であると余は思うのである。
絵は人也」(絵画は作者の人格を反映する)と言う格言がある様に、Kunstpsychologie(芸術心理学)と云う芸術作品に秘められた芸術家のPsyche(心理)、Persönlichkeit(人格)、Idee, Meinung(思想)、Emotion(情念)、其の他を分析、解析する学問がある位である。
此の学術を習得する事によって、芸術作品をVisuelles Element(視覚的要素)だけで観察するのみならず、Geistiges od, spirituales Element(精神的要素)も一緒に把握出来るのである。
余自信も我が母上から「人間の能力も大事だけれど、人柄はもっと大事よ。」と何度も教えられているし、かつて広島カープの「黄金期」の主力選手で「国民栄誉賞」受賞者である衣笠祥雄氏も、其の著書「限りなき挑戦」の中で「ぼくはプロ野球選手は、プレーヤーである前に、まず健全な人間であれ!と叫びたいのである。グラウンドでどんな大記録を作っても"人間失格"ではぼくは価値が無いと思う。」と書かれている位である。
では、此の様な事を書く余の人柄とは如何なる物かと言うと、「高慢な自惚れ屋」である事以外は、人柄や生き方に於いても広重殿と共通しているのである。
 
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