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西洋式瞑想(Meditation)と「天台小止観」に就いて

2018.08.22

2008年以来、余は2016年までの間に「鳴門市ドイツ館」、等で公共事業としての個展を9度も連続して開催し、2011年には天台宗総本山・延暦寺の「横川中堂」、及び2017年には比叡山坂本の「滋賀院門跡」に我が作品を計23点奉納し、展示させて頂いている。
同時に昨年の12月以来、我が母上の経営する事業所、並びに家事の手伝いも増えた事から、流石に本来「道楽者」の余でも(自分なりに)多忙と言える毎日を送っている。
とは言え幸いにも仕事は我が館(実家)や我が家族の所有地内で行えるので、サラリーマンの如き心身のストレスは全く感じない。
しかしながら、時の流れが余りにも早く感じられてならないので、自分に此の世で残された寿命が更に短く感じられるのである。
そこで余は(其れなりに)多忙な中で、時間をより長く感じる方法は無いだろうかと思案した。
そして思い付いたのが、今まで余が西洋式且つ我流で続けているMeditation瞑想)と天台仏教の中の必須科目の一つである「」である。
先ずMeditation(瞑想)であるが、余は少年時代(12歳頃)より誰にも言われる事無く、自ら進んで此れを実行し続けて来ている。
と言うのも余は生来一人っ子であるのと、※我が親父殿は余が10歳の時他界した事、そして我が母上は事業所の経営で忙しかった事、そして我が家が純粋な「士族」の血筋である事に己惚れて、庶民に混じれて凡俗な人間に成り下がる事に我慢がならなかったのである。
其の為か余は少年時代から「群れ」の中で生きる事が大嫌いであったし、一人で居る事に寂しさを感じるどころか、其れが好きであり、気楽なのである。
そして、一人で自分が好きな事を好きな方法で思う存分続ける事に、最も幸せを感じていた。
要するに"Einzelgänger"(一匹狼)だったのである。
(※我が親父殿は第二次世界大戦中、若干20代前半で大日本帝国陸軍・少尉で暗号解読官を務めた秀才であった。
共に過ごせた時間は短かったが、余に「精神と知恵の財産」を残してくれた事に心より感謝している。)

其れに対し今日の多くの若者共は、近年のおびただしい通信技術の進歩によって、やたら他人と繋がる事を求め、周囲や他人事ばかり気にして、自分自身を見つめる事の出来ていない傾向が著しい。
此の様な事では自分の好きな道に進んで、其れを極め、達成するどころか、自分が何者なのかさえ把握出来ていないのではなかろうか。
而も通信機器や其れが提供するサービスを乱用する事によって、自分の「人生」と云う貴重な取り返しのつかない時間を無駄に消費しているのだから始末が悪い。
余は人間が成功や幸福を獲得するのに絶対必要な要素として才、知、勇、志、努、人、運の七つを挙げている。
更にこれ等の要素を活かす為には、時間を如何に有効に使うかが非常に大切なのである。
時間を有効に使う為には、自分の人生に不必要な物事に関心を持たない事、無駄な行動は取らない事が勿論大事ではあるが、更に自分を観察する事(Selbstbetrachtung)、自己を反省する事(Selbstreflektion)、自分で熟慮する事(Selbstnachdenken)、そして自分で決断する事(Selbstentscheidung)も大事であると考える。

これ等を実行する為には、外界からのあらゆる刺激を断ち切り、精神を自分に集中しなければならない。
其の為に必要なのがMeditation(瞑想)なのである。
Meditationにも色々と形式があり、大別するとEuropäisch西洋式)と Asiätisch東洋式)がある。
Europäische Meditation(西洋式瞑想)は場所や服装、其の他の形式に左程のこだわりが無く、基本的には静かな場所で、自分の体を楽な姿勢に置いて、目を閉じて精神を統一(Geistige Konzentration und Anspannung)、「泰然自若」(Gelassenheit)の境地に入り、内面的な安息(Innere Ruhe)を得れば良いのである。
最上なのは此れに依って何かInspiration(霊感、ひらめき)ないしはIdee(名案)、Weisheit(悟り)が得られる事である。
余は個人的には、簡単なのでEuropäische Meditation(西洋式瞑想)を採用し、体を横たわって祈る様に両手を組んで行っている。
傍から見ると居眠りでもしている様だが、余は結構此れで様々な事に思いを巡らしたり、自分の過去の経験を思い出したり、又、現在の事、そして未来の事を考えたりして、多数のInspiration(霊感、ひらめき)、Idee(名案)、そしてWeisheit(悟り)を得て来たのである。

次に東洋の瞑想の代表例として「禅」について書いて行く。
禅は古くはインドから中国に移住して、此れの開祖となったBodhi Dharma達磨大師 378~528年?)に始まり、我ら天台宗の高祖「天台大師」こと智顗様(538~597年)によって更なる進化を遂げた。
師匠、慧思様より「法華三昧」(法華経の教えに基づく行)と「三種止観」(漸次、不定、円頓)を授かった智顗大師は晩年の594年より禅及び日常生活の為の心得と教義を纏めた「摩訶止観」の講義を始められた。
此の智顗大師による「法華文句」と「法華玄義」と並んで「天台三大教典」とされる「摩訶止観」は大師自らの御執筆ではなく、大師の講義を書き取った何人もの弟子達によって編集された大書物である。
此の書物の前身として、智顗大師は40代の577~585年に「天台小止観」を御執筆されている。
此の「天台小止観」は「禅」を学ぶ為の急要と云う事で、以下の十章の項目で構成されている。
(※概要の注釈は余による物)
第一、縁を具する・・・良き人や物との出会いを大事にする。
第二、欲を呵す・・・煩悩の代表である欲を抑止する。
第三、蓋を棄てる・・・不必要な物は捨てて、身辺を整理する
第四、調和を重んじる・・・日常生活の要素を調整し、和合させる。
第五、方便行・・・所謂「五法」(意欲、精進、念、巧慧、一心)
第六、正修行・・・正しい行者の修行の仕方と心得。
第七、善根を発す・・・心の中の善根(仏性)を育成する。
第八、魔事を覚知する・・・世の中の悪事を知り、此れを避ける。
第九、病患を治す・・・病気を治し、心身の健康を保持する。
第十、証果・・・「止観」を修する事によって得られる成果。

此の書物の日本語版(関口真大、訳注釈、岩波書店)は長く絶版となっているが、幸いにも余は此の本を古書店で入手し、重要な部分をノートに書き取って来ている。
訳文も文語体で、中国仏教特有の専門用語も多々ある故、注釈が無ければ完全に理解出来ない難読な一面もある。
しかし、此の智顗大師による禅の指導書はただ単に修行僧の為のみならず、在家の者(一般人)が生活する上でも、精神の根本とすべき心得が書き記されている。
これ等の項目を理解し、尚且つ実践する事は、凡人如きには容易な事ではないが、余は「禅」の基本理念同様に「自力」を信じる者として、可能な限り実践して行く所存である。
又、余が2016年5月に初めて謁見させて頂いて以来、春と秋毎に御目に掛からせて頂いている、天台宗・大僧正で延暦寺長臈・小林隆彰猊下は御執筆の本「花咲け、人咲け、命咲け、歩けなくても心咲け」(紫翠会出版)の中に「運心回峰」と言う行について御書きになられている。
「運心とは、心を運ぶと云う意味だから別に回峰行の様に山道を歩く事だけに其の意味を固定する事はない。 禅の考案等も心を運ぶ事であろうし、仏の慈悲を思う事も運心であろう。」(中略)
「此の運心回峰は実拝修行と異なり、修行者は御堂の本尊の前に座ったままで、一歩も歩かずに巡礼の道を頭に描いて脳で歩くのである。」(中略)
「人は過去に生きると年を取ると言うが、歴史を知らない人は痴人であるとも言う。 特に自己には自己の歴史がある。 一度しかない人生の過去を運心するのは残された人生の貴重さを再確認する大切な作業なのだ。 即ち、過去を歩くのである。 其の歩き方も出来るだけ丁寧に歩く。 忘れてしまっている事も思い出す様に努力する。 此れはボケ防止の最高の予防法なのである。」(中略)
歩いた道を心で歩く時間は人間に自己を取り戻させてくれる貴重な時間である。」
余は此れを読んだ途端に、正にMeditation(瞑想)と相通ずる修行であると感じ入り、自分が長年続けて来ている独自のMeditationも其れなりに価値があったと改めて思えたのである。

9月20日には時間に余裕があったので、23日の「彼岸会」に先立って我が母上と共に先祖墓へ参って来た。
最近では余の本来の画業、執筆、ウェイトトレーニングのみならず、人手不足を理由に母上が長年(師匠の代から数えると60年以上)経営している事業所の手伝い、並びに家事の手伝い、そして我が家の多様な財産の管理、等用事がかなり増えて来ている。
昨年の11月までは、殆ど自分の好きな事だけして、芸術家としての業績、名声、地位、人気を積み重ねて来たので、此の様な地味な雑用を強いられて、自分本来の時間が減少する日々が続いて、自分の幸福さえ減少している様な思いであった。
しかし、先祖墓の前で礼拝して、家に帰っていつもの様に瞑想していると、ふと心の中で此の言葉が響いた。
汝、親孝行する事(続ける事)は最上の幸福であり、美徳である。」
此の声は果たして御仏か、我が先祖か、親父殿の言葉かは不明だが、よくぞ余の心の中の黒雲(憂鬱)を取り除き、我が心を照らし始めてくれている。
そして「人間の幸せとは、其の人の心掛け次第である。」「今まで我が人生を自分が描いていた理想以上に築き上げられたのは、親の恩恵と云う土台があったからである。」と云う昔から知っている格言を改めて実感させられたのである!

2018年2月18日の追伸:
我が実家に貯まった大量の段ボール箱や紙袋を焼却処分する為に、田舎にある我が家のボロ別荘に持って行った。
其の隣には我が母上方の祖母が住んでいた空き家があって、そこでは我が家の親戚が中庭で可燃ごみを燃やしたり、いらなくなった本を置き去りにしているのである。
「どうせいつもの様に(下らない本を)買うだけ買って全く読まずに捨てる気だろう。 一生浪費癖が治らない様だな。」と思って其れ等を見ていると、
心が晴れる禅の言葉」(中経の文庫)と云う本があった。
我ら天台宗でも「禅」は「四種祖承」の中の必須科目なので、「此れは面白そうだ!」と思い頂いて、我が家に持ち帰り早速読んで行った。
本書は222ページの小さな文庫本なのだが、其の中には古の経典、禅の指南書、禅僧の語録、等から出典された格言、名言が何と184個も収められており、編集者の赤根祥道師によって現代人に分かり易く解説されているのである。
本書で特に重ねて述べられているのは「人の心を束縛する“こだわり”を捨てる事によって、心を大空の様に広々と自由にし、尚且つ平常に保つ」と言う事である。
此れは余が毎年御目に掛からせて頂いている天台宗大僧正・小林隆彰猊下の著書「とらわれをなくすと、悩みが消える」(PHP研究所)の中の御教えと相通ずる処がある。
此の中で余が最も感銘を受けた禅の格言を三つ抜粋すると、「山中暦日無し」(唐詩選より)、「自性清浄心」(大乗起信論義記より)、そして我が尊敬する文豪・武者小路実篤先生も度々色紙に書かれた「日日是好日」(虚堂和尚語録より)がある。
「山中暦日無し」の章では、「地位が上がるに連れて、分刻みの忙しさだ。 人生の幸せが其の中にあるとは、どうしても思えない。」 と始められ、太上隠者(たいじょういんじゃ)の詩:「山中無暦 寒尽不知年」(そぞろ心に山の中を旅していると、偶然松の木の下に来て、其の下にある石を枕に眠っていると、月日も忘れてしまう。 寒さは去ってしまったが、自分が何歳になったかも忘れてしまった。) 此れが人生の極意であるとされている。
「自性清浄心」では、「生まれつき(自分が)怒りっぽいと悩んでいる人は、其の思い込みや妄想に振り回されているに過ぎない。 自性(人間の性)は本来清浄で、汚れ無き物だ。」(中略)
「ところが欲が出て、自分の事しか考えなくなると、尊い清浄心が汚れて来る事に早く気付く事だ。
心の洗濯を禅で行えば、”自性清浄心”は光を放って来る。」 と解説されている。
「日日是好日」では、「人生は自分の思うままになるとは限らない。 志と結果が逆になる事さえあるのだ。」
(中略)「一日の始めに当たって、自分の曲がった考えや「こだわり」を捨て切って、自分の心を清浄にして日々を過ごす事が大事である。」と書かれている。

本とは読む人にとっては僅かな費用で尊い知識や教えを享受出来る貴重な物件であり、読まない者にとっては何の価値も無いただの印刷物に過ぎないのかとつくづく思った。
同じ此の世で生きているのなら、僅かな費用で尊い知識や教えを学び、其れを人生の糧に出来る人間の方が遥かに「幸福」や「成功」を得られるのではなかろうか。

Kunstmarkt von Heinrich Gustav   
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